一般社団法人メンタルバランス研究所認定宮城心理療法塾、塾長宮城丈二(心理行動療法士)のhistory

  オーナーのプロフィール 

     名前 宮城丈二(みやぎじょうじ)

    昭和32年12月2日生まれ 酉年 射手座 血液型O型

    鹿児島市にて生まれ、神戸市の須磨で育ちました。

    高校中退後、昭和49年理容業界へ入り(有)小牧へ入社

           現在の(有)フリゼ-ア小牧 http://www.friseur.jp/  

    昭和58年 神戸市中央区にて、独立開業

    昭和61年 現在地の三木市へ移転開業

    平成17年 有限会社 宮ぐすく設立 代表取締役就任

      女性専用お顔剃りエステサロン  メンズヘアサロン

      スキンケア商品ヘアケア商品健康機能食品等通信販売店

      一般社団法人メンタルバランス研究所公認 宮城心理療法塾塾長

      メンタルバランス心理カウンセラー(心理行動療法士)

私のヒストリーの一部です。

父は、台湾の高雄で生まれ育ちました。戦争に、志願したものの高雄で終戦を迎えたがその後2年近く捕虜生活を過ごしたそうです。高雄では爆撃で生き埋めになったそうですが、掘り起こされ助けられたそうです。戦時中に、父は自分の母親が亡くなった時に、遺体を自分で火葬したそうです。今では考えられませんが戦争での体験は大変辛かった様で、聞いてもほとんど話したがりませんでした。

母は、大正13年に、神戸市で生まれ親和女学校を卒業した後、中央区の江戸町で、外資系の貿易商で今でいうOLをしていましたが、神戸の空襲で豊岡に疎開する事になり退職したそうです。

母の父親(私に取って祖父)は当時、兵庫中学の教師でしたがとても厳しくも大切に育てられた様です。終戦直後、配給がヌカしか無くて、祖父は神戸では食べるのに困るからと、教師を辞め母達を連れ、祖父の田舎、鹿児島へ移りました。祖父は父親が指宿の十二町の町長を務めた家庭で育ったので貧しい生活は耐えれなかったのでしょう。その後、母は、医者をしている青年から求婚されたらしいですが、祖父が嫁にやりたくなかったらしく反対してその話は無くなったそうです。結局、数年して台湾から引き揚げてきた父と一緒になったそうです。そのお陰で私がこの世にいることです。母の戦時中の苦労はその時代生きた人なら同じでしょうがが、父と一緒になってからの苦労は、ここでは書けませんが戦時中にした苦労以上の苦労だったろうと思います。今の時代の女性なら、耐えれる人は少ないと思います。

昔の女性は我慢強いだけでなく、色んな状況や当時の常識から考えると女性の立場の弱さもあったのかも知れません。ただ、母の辛抱があったおかげで自分達がこの世に生まれた事実があると思うと、苦労に耐えてくれた事は感謝でいっぱいです。

最初に生まれた私の長兄は生後50日程で栄養失調になり亡くなりました。この時も父は、戦後の荒れた状況の中、火葬場が無く、お寺の空き地で長男の遺体を火葬して納骨したそうです。今の時代に栄養失調など考えられないですが、そういう時代だったのでしょう。

その後、兄姉が生まれ、私は、昭和32年に同じ鹿児島で生まれ生後50日程で家族一緒に神戸の須磨へ出てきました。今の離宮公園の東側の山の麓に越してきたのですが、ここは神戸市の市有地で天井川にある砂防ダムの内側の土地へ不法に立てたバラック小屋に住みついた様です。当時そのあたりは、数十件の不法に立てたバラックが有り鹿児島の人達が多く住んで居たように思います。その後、弟、妹と生まれ5人兄弟姉妹の7人家族と成りました。

山で育った子供時


私達の子供の頃は平均的に、どこの家も貧乏だったと思いますが、自分の家が特別に貧しいなどと思わず小学校へ通い出して初めて知る事となりました。当時私の家にあるのは壊れた真空管のラジオと天井からぶら下がった裸電球が一つあるだけでしたが、それまでその様な事を考えることも無く、山や川など自然を相手にのびのびと育っていました。

ここでの生活では、水道やガスは無く、トイレは裏山に父が穴を掘り、そこに一灯缶をはめ込んだ粗末なものでした。一灯缶が汚物で満杯になる度に缶を引き抜き、溜まった物を山へ捨てに行き再び缶を埋め直して使っていました。

一度、うっかり左足を満杯の缶の中にはめてしまったことがありますが、そのときの何とも言えない温かい妙な感触は今でも覚えています。 母に、『早よ川へ行って洗っておいで!』と怒られ川へ行き洗ったのを覚えています。この川には、色んな意味で生きるという事を教えてもらい現在の自分があると思っています。

家に水道が無かったので、生活水は小川の淵(ふち)に穴を掘り、一灯缶の底に釘で数十個の穴をあけて、大小の小石を缶の底に引き詰め掘った穴にその一灯缶を埋め込み、形だけろ過して湧き出た水を柄杓で汲み、バケツに家まで運んで水ガメに貯水し使っていました。

井戸と言える様な代物ではありませんが、この手作りの小さな井戸には、子供ながらに、体も精神的にも自然と鍛えられた様な気がします。

当時、住んでいた所は天井川に架かる砂防ダムの内側に有り、雨で川が増水すると土砂で井戸が埋まってしまいます。こうなると生活水が無くなるので、大雨が降るたびに一灯缶を掘り返し井戸を作り直すのです。毎回の様に家族で作り直すします。しかし、くじけることも無くそれを当たり前の様に思っていました。家へ運ぶのはバケツに水に汲み両方の手に持つのですが、小学校へ入るまでは水を家まで運ぶのが重たいのと、水をこぼさない様に上手に運べませんでした。兄がこぼさず上手に持って帰り誉められるのを見て悔しく思ったのを覚えています。今でもそうですが、子供の時から兄の背中を見続けている様な気がします。

他にも、米を炊くのにもガスが無いので薪を燃料にしますが、山から枯れ木を取ってきて使っていました。冬は枯れ木が沢山ありますが、夏は少ないので生木を持って帰り燃やしていましたが、煙が多くて困りました。一度、漆の木かハゼの木だったか煙がきつかった為、母の目が見えなくなって治るまで2週間ほど大変だった様な記憶があります。洗濯をするのに少し離れた所まで毎日行くのですが、母がつまずいて倒れた時に近所の子に笑われた事がありますが、そんな事が悔しくて今も記憶に残っていたりします。

お風呂は2週間に一度、山から下りて町の銭湯へ行き、他の日は盥(タライ)を使って行水で済ましていました。住まいは極端に狭い3坪程(たぶん5坪は無い)のバラック小屋でしたが、そこに居る時には、家が狭いという思いはありませんでした。

ただ、雨が降るとトタン屋根(ブリキの波板)なので雨音が相当うるさく、雨漏りも大変でしたが、晴れている日は天井の穴から星が見えて居たのを覚えています。よく寝転がってみなで穴から見える星の数を数え、けっこう楽しくしていました。

近所にはうちよりも酷いバラックの家に住んでいる人が居ましたがそこは入口が夏は、ムシロでした。子供は自分達と同じ年頃の二人姉妹の4人家族でしたが、この二人は今頃どうしているだろうと思ったりします。テレビなどでカンボジアなどの貧しい映像を見ると思い出します。

最近になって、知人で易者をされている方に子供の頃に住んでいた所や当時の状況を話したら、『その場所は昔、友達が住んでいて一度行ったことがあり良く知っています。あの時代でも、こんな所に住んでいる人が居るのかと驚いて泣いたのを覚えていますよ。そうですか、立派に成ってよかったね」と感動してくれて涙を流されたので、少し驚きました。

誰でも、自分の生まれた環境や状況だけを見て他と比べることなく過ごしているなら、自分が貧乏であるとか不幸であるとか、マイナスの考え方にはならないで毎日を楽しく過ごせると思います。又、他を見ても自分と比較することなくそれぞれの与えられた状況の中に生きて行くものだと理解できたら、誰でも心も荒れることなく過ごせるに違いありませんが難しい人が多い様です。そんな中でマイナスの考えに偏らすに成長できたのは母のお陰だと感謝しています。

母から聞いた話で記憶には有りませんが、幼い時に腸炎になり、医者に見捨てられた私を諦めずに、他のお医者さんを探し、元軍医だった須磨区南町の斎藤先生を見つけました。助けれる保証はないけれど診てみると言ってもらえたが、入院させるお金もなく毎日一カ月間、背中におぶって往復8キロ程の道を通院した事が有るそうです。小さな頃から何度も聞かされたので記憶の一部の様には成っています。

毎日、平和に川や山で遊んでいた事が今でも嬉しく楽しい思い出になり今の自分の物事に対する価値観に繋がっているのは確かな事です。

私達兄弟姉妹5人は、幼稚園や保育所へは行きませんでした。

小学校へ入学するまで、幼稚園などというものが有る事を私は知りませんでした。入学式の後に教室で担任の先生が自己紹介をしてくれましたが、黒板に先生が書いたひらがなの名前を他の子が大きな声で言うのに自分には読めなくて、ここで初めて不安な劣等感みたいなものを感じた様な気がします。この先生は、とても優しい女の先生で、ひらがなで書いた名前の上に、「ある所に大きな栗の木がありました」と説明しながら栗の木の絵を描いてくれました。そして、「その栗の木のある所に何人も人が住むようになって村が出来ました」と説明して、「さぁ!先生の名前は?」と聞いてくれて初めて私は“くりむらせんせい”と理解出来て嬉しかったのを覚えています。

子供の頃は、酒癖の悪い父親に対して萎縮して居たせいかも知れませんが、特に引っ込み思案で、目立つのを避けて居た様に思います。小学校での綬業中も上の空で、勉強には付いて行けず、又ついて行く気もなく、授業中は落ち着きなく、じっとしている時はまったく関係の無い事を空想している様な落ちこぼれた子供でした。結局、落ちこぼれたまま高校を中退して、仕事をし始めて、やっと目覚めた感じです。今の自分からはとても想像出来ないと思いますが、子供の頃の私とは別人の様です。

山から下界へ

その後、10歳の時に近所の人も6人程亡くなるほどの災害に遭い、そのとき屋根から屋根へつたい逃げ避難した事がありました。(昭和42年7月の神戸水害)砂防ダムの中という事も有り、大雨が降る度に普段は小川なのにすぐに溢れ池の様に成りますが、この時の雨は尋常では無く、そうとうな勢いで水かさが増えました。この時は非難する時に雨で濡れてガタガタと震えが止まりませんでした。土砂で流された直後の近所の子の家を見ながら避難しました。その次の日に避難先の小学校から帰ると家は土砂で埋まり辺りの景色がすっかり変わっていました。

その日の内に引っ越す事になりましたが、父は大雨が来る前に引っ越さないといけない状況に成るのを天からお知らせを受けて居たらしく、水害の前に次に住む家を決めていました。この時に引っ越して初めて水害で埋まった家がとても小さかった事を知る事を実感することになりました。引越し先の家は須磨寺町に有った表は2階建て裏は3階建ての文化住宅で半分地下に埋もれた様な半地下の6畳一間の1Kでした。

6畳間に家財道具を置くと、7人家族では普通に想像するとかなりの狭さです。この6畳の部屋に入った時の私の印象は『うわ~広いなぁ~』でした。

私は5人兄弟ですが家族7人で住むのに広いと感じさせた6畳の部屋は荷物を置くと寝る所は相当狭いはずですが、初めて部屋に入った時には広く感じました。今、思うと山の家がとんでもなく狭かったということです。須磨寺町には4年程すみ、その後、また引越してふた間程の借家に住むようになりましたが、早く家を出て家計が楽に成ればと、中学校を創業して親元を出る事にしました。

高校は、元々トヨタ自工の養成校で愛知県豊田市にある全寮制のトヨタ工業高等学園でした。授業料も要らない、手当付きでしたので選びました。1学年が18クラスの全国から生徒が集まる大きな高校でした。

実家を出て、初めて豊田市へ向かう時に父が神戸の集合場所まで、送ってくれる事になり神戸駅まで須磨から市バスに乗りましたが、この時にバスに酔ってしまい、耐えられなくなり、父に「バスに酔って気持ちが悪い」と助けを求めた瞬間、父はいきなりげんこつで私の頭を殴りました。これにはけっこうショックで涙目になりましたがバス酔いが治ったのには驚きました。

トヨタ工業高等学園での寮生活

トヨタに入ってからの寮生活では、朝は6時に「点呼!」の声を合図に中庭へ整列し舎監が「番号!」と号令をかけ番号を順番に叫びます。何となく軍隊のような感じがするなぁと思っていたら、舎監も学級の担任も皆、自衛隊の予備役でした。入学してしばらくは、体育の授業も行進の練習ばかり1時間歩き通しというのが続きました。数カ月は行進とラグビーの練習ばかりで、1日がかりで30キロとか20キロを6人一班で歩く授業もありました。

ここでの生活では先輩に、上級生との上下関係や言葉使いなどを厳しく教えられました。

寮内、学園内だけでなくどこで顔を合わせても後輩は先輩を見かけると車道を挟んだ反対側の歩道であっても大きな声で挨拶をします。挨拶だけではなく、態度が悪いとか服装が生意気だとか、厳しく一年間は修行の様なものです。外で会うと私服の場合は、先輩かどうか解らないので、取りあえず誰にでも顔が会うと挨拶をする事になります。これが出来ていないと夜に先輩の部屋へ呼び出され正座をさせられ焼き入れをされます。

「今晩、8時に○○号室へ来い」と言われて行くと部屋を暗くしてバケツを用意して待っているのです。私も何度かは呼び出されて経験しましたが、バケツを使うほど酷くは蹴られませんでした。

用意したバケツは、顔は殴ると青タンが出来て舎監にばれるので、腹を殴られたり蹴られたりします。つまり胃の中の物を吐くので、その時の為のものです。

色々とありましたが、今でもトヨタでの一年間は、とても懐かしく良い経験の一つと感謝しています。他にも“創意工夫”の心がまえを習慣として意識の中に持てるように成ったのもトヨタでの体験のお陰だと思っています。

自己退学から理容師へ

私は自分がその気にならないとまったく努力をしない様なところがあり、高校へ入学してすぐの夏休み前には、学校を辞めて早く仕事に就いた方が自分にとっては良いかもしれない、と考えるようになりました。そして、高校を中退した自分にいったい何が出来るのだろうか....と考えたとき、小学生の頃に父がよくいっていた言葉を思い出しました「丈二、おまえ中学を卒業したら陳さんの弟子にれ」

その当時、須磨寺商店街の近くに華僑の人が経営している理容店があり、父がよく「陳さんの弟子になれば食べていくのには一生困らへんよ」と話していたのが、私の記憶にありました。

そのころは父からそう言われる度に“なんで散髪屋にならなあかんねん。絶対にならへん!”と思ったのを覚えています。今から思えば、米櫃に米が入っていない事も多く、当時の私たち一家は、貧しく毎日食べていくのが大変だったのではないかと思います。父は子供達には食べて行く為の苦労をさせたくなかったので、自分の努力次第で景気の浮き沈みにも左右されにくい理容師にさせようとしたのだと思う。しかし小学生だった私には、そんな父の考えが解るはずもなく、大人の人を相手に仕事をするなんて無理!位の子供の発想で想像するしか出来なかったので父に言われる度に“なんで散髪屋にならなあかんねん”と思っていました。

高校を辞める事を考え、理容師という仕事を考えたとき、何となく“自分には出来る”と、そう思えました。そうなるとすぐにでも中退をして理容学校に行こう、と担任に相談に行ったところ「おまえには無理だ。そんな中途半端で出来る簡単な仕事では無い考え直せ!」と言われて、一度は引き下がったフリをしたが考えは変わらず、結局1年生の3学期のある日、早朝に勝手に寮を出て神戸に帰りました。

高校を辞めて帰ってからは、理容学校へ行くために午前3時過ぎから新聞配達のアルバイト(朝刊を自転車で300件配っていました)をして学費をつくりましたが当時はオイルショックがあり、どこも節約のため街灯を消していたので暗闇の中で新聞配達をした事を覚えています。この時は原付バイクの免許が欲しいとは思いましたが父の許しが出るはずもなく言えませんでした。今、思えばその時に取らないで良かったと思っています。バイクを乗っていたらろくな事にはなっていなかったと思います。

理容専門学校へ入学して、しばらくして新聞を配っているよりもどこかの理容店に住み込みで入った方が時間に無駄が無く仕事も覚えることができると考え、専門学校に西宮市の小牧を紹介して頂いて、理容店での修行が始まりました。入ったお店は西宮の夙川でした。ここでの生活では、今の自分が活きて行く基礎を創って頂いたと、先代の社長、今の社長ご夫妻には感謝の気持ちで一杯です。現在は、当時よりも更に発展した店と成り、関西ではトップサロンとなっています。

そして、独立開業

私は独立心が強かったので、理容学校を卒業してからは、自分の店を早く持つためにはどうすれば良いか、何をすれば良いか、何が必要か、そんなことを常に考えていました。それまで生きて来た中で人に評価してもらえる事もほとんどありませんでしたが、技術習得を目指して毎晩仕事を終えてから練習をしてコンテストに出場する。その繰り返しで、全国大会では2回入賞、近畿大会で優勝、兵庫県大会3回連続優勝、とお客様に安心していただける技術を習得し自信もつけることが出来きましたが、自分1人で1人前に慣れているわけでは無く、修行する店で人生は大きく変わることを実感として感じています。大勢の先輩の指導、そして先代の社長と今の社長夫妻ともに最高の縁を頂いて来たことに感謝せずにはいられません。

けっきょく、8年余りお世話になった小牧理容を退社させて頂き、他店に移りその半年後、神戸で独立開業する事になりました。店の開業資金は修行していたときに貯めた100万円、昭和57年6月に結婚しそこから二人で貯めた300万円、勤め先のマスターより借り入れた50万円の合計450万円を資金に、貸店舗を探すことにしました。

これも今思えば、たった一年で家内と二人で300万円も、よく溜めたものだと感心する。

二人で力を合わせればどうにでも成るような気がするのはこの時に思いました。

とは言え資金が少ないためなかなか思うような物件が見つからなかった。そんなある日、家内の知人から椅子2台で5坪の空き店舗が権利、敷金合わせて400万円であると聞き、すぐに見に行き交渉した結果、権利150万円、敷金150万円の合計300万円で賃貸契約が成立することができた。そして、独立開業となりオーナーとしての第一歩を踏み出すことになりました。

昔は権利金などと言うものが有り、敷金も高かったけれど、今なら同じ状態の店舗を借りるなら費用は3分1も掛からないでしょう。

お客様が一人も来ない日。

期待を胸にオープンしたものの、お客様の来店数が思うように伸びない。今まで勤めてきた店のイメージからほど遠いのである。なんとお客様が一人も来ない日が数日続き、オープン1ヶ月の売り上げが極端に少なく持ち出しがかなりあった。同じように3か月ほど赤字続きでしたが持ち出しの金額が減る傾向だったのでそれほど心配しなくても良いかとわりと気楽に思えました。

しかし、今のままでは経営が成り立たないので、それからというもの手作りのニュースレターチラシを月に2回ポスティングしたり、夫婦で近所の商店街へ買い物に行き顔を覚えてもらったり、思いつくことはいろいろとやってみたので徐々に結果も出るようになりました。店の営業方法などこの時は教えてくれる人も無く、教材もないので自分で考えるしかありませんでしたが、そのお陰でとても良い経験を積むことができました。

その間、長男が出来て家内も店を手伝えなくなりましたが、長女が出来る時は上の子を見なくてはいけないので、狭い店に連れてきて見ていましたが、お客様が来店している時には待合に寝かせていても泣き叫び、お客様に迷惑をかけ大変でしたが今は懐かしい思い出です。

3年後には、お客様も増えて来たが店を広げるスペースも無いので、将来を考え思いきって移転することにしました。決めればすぐ実行したくなるのですぐに次の店を探す事にしました。

ところが、予算の無い中でいざ店舗付きの家を探すとなると厳しい現実に直面することになり、無理かと思いそうになったが、あての無いままに、店の営業をやめて店舗を探す事に専念しました。それから神戸だけでなく三田、三木と1か月余り探して巡り合った現在の場所、三木市で家を買い、店舗に改装して新たにオープンすることになりました。その後は、紆余曲折有り、現在の(有)宮ぐすくがあります。

理容を通して、多くのお客様に感動を送れるよう取り組んで来ました。そして、その中で自分自身が成長してきた事を感じています。多くのお客様から沢山の知識や知恵を頂きました。H22年からは、多くの方に喜んで頂ける様、サロンワークから少し離れて新たな取り組みをしています。

現在の状況は、北海道から九州と全国の理美容サロンへ向けての講習活動を主に活動しています。土曜日と日曜日は指名予約して頂いた方のみサロンで担当させて頂いています。

また、立場を変え心理カウンセラーとしても、悩める人の心を少しでも軽くして、生きる力を取り戻して頂ける様な取り組みもして行きたい考えています。                                                          宮城丈二

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 〒673-0553 兵庫県三木市志染町東自由が丘1丁目626 TEL:  0794-87-8138 FAX:0794-87-8139     E-mail:info@gusuku.ne.jp  Copyright (c)2005 All rights reserved

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